アンナ・ヴァルダニャンアルメニア国立経済大学, 経済学博士葛飾北斎(1760–1849)の名作、「神奈川沖波裏」を初めて研究する機会に恵まれたとき、直にアララト山の形状に気が付き、そのことについて画家の友達や画家ではない友達に告げると、特に熱狂的な反応もなかったため、その疑問は再び話題に出すことなく、しばらく胸に仕舞い込んでいた。そして今年、日本を訪れたとき、お土産、扇子、ペンや鉛筆など、いたる所で葛飾北斎の作品が目に飛び込んでくる。ここで再び、あの名作を見たいと思った。それがきっかけで、北斎が富士山を主題とした「冨嶽三十六景」という名所浮世絵揃物を描いたこと、そして私が想起していた「アララト山」を彷彿とさせる作品、つまり「神奈川沖波裏」はその中の一作品で、1832 年に制作された傑作であることを知りました。そして、またもアララト山が私の脳裏に浮かんでいる。。。私はアルメニア人であることと、日本文化の愛好者であること、この組み合わせが有るが故に、他の人には感じる事が出来ないものが私には感じる事が出来るのかもしれない。アーティストは常に、自分の作品に秘めた想い、観客の想像力に委ねる部分を残すと言われている。この作品からアララト山を思い浮かべた人が、私以外にもいるのか調べたくなった。インターネットで詳細に調べた結果、なんと、居たのです!! しかも、その人はアルメニア人ではなく、アメリカ人で、有名な詩人のドナルド・フィンケル(1929-2008)と云う人物であった。フィンケルは、アララト山を見ただけでなく、1959年に北斎の「神奈川沖波裏」を題材にした詩も創っている。さらに、フィンケルのこの詩を題材にしたエッセーも見つけたが、著者のスティヴェン・マーティンもまた、アララト山についてつぎのような観察を行った。「しかし、芸術作品のために、36の富士山の眺めを描いたアーティストなら、もし知り得たならば海外にある似た様な眺めの山、たとえばアララト山の頂きをも描いたはず」と。このマーティンの言葉、どれだけ嬉しかったか、言葉で表せない。アララトを見たこと、いろいろ探した結果それにまつわるある話しを見つけたこと。これこそが私にとって重要であった。つまり、富士山からアララト山を「思い浮かべた」人は他にもいたのだ。そして、今まで自分の中で育んでいたこの話を、親友の言語学者で、アルメニア・日本関係研究者のアルツヴィ・バフチニャンに話してみたら、記事を書くことを薦められた。このテーマがいつか、アルメニアと日本の専門家の関心を引き、科学的な根拠に基づいて研究を進める人が現れる日が何時かくることを願っている。北斎は、その作品のなかで、津波と世界大洪水を描いたのかもしれない。となると、鎖国時代の日本、北斎はいったいどこでアララト山の姿を想像することが可能だったのだろうか。日本のアーカイブを探ったら、その答えがどこかにあるかもしれない。ここで、ドナルド・フィンケルの詩の日本語訳を紹介したい。大波:北斎海は青いから、富士も、波も青いから、水夫の顔は、富士の雪の如く白く、空に届く波頭の如く、彼らの小舟の如くに。空気が言葉でいっぱいだから、波が止まっているから、この虚弱な流れ者に害を与えるものは何もない、紺碧の空に立ちはだかる富士の頂きには、あの波は落ちないだろう、青い男は雪のような海にもたれて、波はうねり立ち空に寄りかかる。絵師の海では漁師はみんな無事だ。すべての怒りは、彼の快い調子の下で変化する。だが、あどけない傍観者は、彼は単に「歩き回るだけ、何も考えないで」。大波の後ろに隠れた私達には彼のうねる声が聞こえる。彼は、時として存在し、時として存在しない、彼は自然だ、しかし、富士の麓を見ることは叶わない。岸も、空色も然り、彼は波だ、彼は水主に対して爪を伸ばす。彼は安全ではない、自分自身でさえも。彼の世界は平である。彼は蛇でいっぱいの海を操り舟をいざなう。波から波へと、ただひたすらにアララトに向って。翻訳:ルザン・ホジキャン
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