アルメニア専門家による日本に関する談話(ビデオ)

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アルメノロギスト日本について

https://www.youtube.com/watch?v=ssGXMPlDkrs から取られた材料
アルツヴィ・バフシニャン(アルメニアから):言語学者、アルメニア人ディアスポラの研究者、フィルムやダンスの歴史。彼はエレバンで1971年に生まれました。1988-1993にはエレバン立大学のアルメニアの言語と文学の部門でに勉強しました。1996-1997年にはスウェーデンのウプサラ大学で研究者として招待されました。2009年以来彼はアルメニア人ディアスポラのセクションで科学のナショナル·アカデミーの歴史学院で働いています。彼は10年の間に中国と日本でのアルメニア人の研究とアルメニア人と中国人と日本人の国民の間歴史的、文化的関係の研究を書いてきました。彼は数の国際会議、フェスティバルや世界のさまざまな国でのミーティングに(2010年 – 日本の大阪では)参加していました。

ムラジャンハスミ久によってアルメニア語から日本語に翻訳しました

アルメニア・日本交流と文学的関わり

アルツヴィ・バフシニャン

文学修士

我々に伝わっていた情報によれば、アルメニア人が日本と初めて関わったのは17世紀の初のころであったそうだ。世界中に交易を拡大したノル・ジュガのアルメニア商人はアシアの市場で活動して、チベットシャムジャワ島フィリピン中国、そして日本まで進んでいった。17世紀中期ころから19世紀の中ごろにかけて日本は鎖国しており、交易は停止してしまったため、この頃の交流については情報がない。アルメニア語の印刷資料による日本について最初の情報は1805年に出版されたステパノス・アゴンツの地理学上の論文であった。そこには「チェポン」、「ヤポン」と言う国の自然、歴史、言語、民族の話が詳しく描かれていた。(参照 「世界の地理の色々」S.S.ステパノス・ギュヴェル・アゴンツ,1805,ベニス,pp.289-351)。
19世紀、インドに住んでいたアルメニア人は日本との交易・航路を拡大した。1870年に«アプカーと表示»という財力のある貿易会社が日本への航行サービスを提供していた。1880年、この貿易会社は神戸、横浜、長崎とシンガポール、ペナン島、香港、カルカッタを結ぶ航行を行なっていた。アルメニア人商人は主として神戸、大阪、横浜に住み、大阪では«エドガル兄弟»というアルメニア人が商社を経営していた。また、1890年代から神戸で«アガベクと表示»、横浜で«アプカーと表示»という商社が営業していた。1880年代に横浜で交易したP.M.パパシャン氏はそこに1917年まで住んでいた。1900年代に神戸で«マルチン兄弟»商社が開かれ、幾人かのアルメニア人が勤めていた。社長のポル(ポゴス)・マルチンは有馬で«キング・ジョーギ»ホテルを経営しており、1931年に亡くなるまで有馬に住んでいた。1920年代に神戸で «ポール・アラチゥンと表示»というシンガプールの«ポール・ステファノス»商社の支店が営業していた。
19世紀、他にも幾つかの日本との関係が書かれている。カンスタンチノーポルのアルメニア人農業専門家のニシャン・ガルファヤン氏(1865-1932)は日本の蚕養企業と交流した。また、フランス国籍のジョセフ・シャルル・ヴィクトル・マルドゥル(マルティロシャン)氏(1868-1949)は船の医師として中国、インド、日本を回って旅行をした。また、エフドキアのアルメニア教会大主教のサハク・アイワチャン氏が1887-1924年に日本を訪問した。20世紀の始めに日本で色々な国の大使としてアルメニア人が勤めていた。例えば、オワネス・ハン・マセヒャン氏(1864-1931)は1930-1931年にイラン大使をしていた。他に、イワン・テヴォシャン氏(1902-1958)は1956-1958年にソ連邦の大使をしていた。
20世紀の始めアルメニア人のダイアナ・アプカーという英語作家、社会評論家が日本に移住した(生1859、ラングン、死1937横浜)。彼女の旧姓はアナヒト、名字はアガベキャンだった。彼女はカルカッタで英語教育を受け、アプカー・ミカエル・アプガリャンと結婚し、神戸へ移住した。そこで貿易会社を経営した。夫の死後、彼女は横浜へ移住し、そこで家族ビズネスを続け、3人の子供を育てた。
ダイアナ・アプカーはアルメニア人について講義をしたり、「Japan Gazett」という英語新聞に記事を書いたりした。横浜で出版された彼女の本は次のものである:«The Murder of Armenia» 1916, «Betrayed Armenia» 1910、«On His Name»1911, «The Peace Problem»,  «Peace and No Peace» 1911,«The Great Evil»1914,«On the Cross of Europe’s Imperialism, Armenia Crucified» 1918。
それ以外に«1000と1短編小説の本から» 小説集(2004年に再出版)、«The Lonely Crucador»長編小説、«Imperialism and the law»論文と詩が出版された。1919-1920年に彼女はアルメニア第一次共和国の極東の領事に任命された。それで、彼女は世界第一号の女性外交官(ソ連のアレクサンドラ・コロンタイ女性外交官より早く)となった。当時の人のうわさによれば、ダイアナ・アプカーが部屋に入ると、大使館の男性達が皆立ち上がるほど、彼女は美人だったそうだ。母国愛と責任感を抱いた、ダイアナ・アプカーはセビリアと日本を越えてアメリカへ向かっているアルメニア人難民に出来る限りの救助をしようとした。ところで、当時に日本、ロシア極東、中国とインドに住んでいたアルメニア人は1920年、アルメニアのために5百万のセビリア・ルーブルを集めて送ったそうだ。また、セビリアで1,5-2万ドルの固定資本を持つ商社が出来たが、その目的は日本からアルメニアに安い製品を送って、アルメニアとの関係を続けることであった。(参照 カンスタンチノーポルの«闘い»アルメニア語新聞、1920年8月27日)。
加えたいこととして、ダイアナ・アプカーの子孫は現在米国に住んでいるが、墓の手入れは東京の日本・アルメニア協会(JAFA) によって行なわれている。

文学的関わり

日本に関する初めての記事、論文、本は19世紀の末に出てきた。トプチャンという作者はE.T.ペンネームという名でトビリシの「ルイス・オラツイツ・ハンデス」作品集(1905年、p. 622-632)に「現代の日本」と言う記事を掲載した。その記事には日本についての地理、文学、音楽など日本と日本人について様々な情報が載せられた。又は、ヘギネ・メリク・ハイカジャンの「日本を一回り。私の思い出と印象」という小型の本(トビリシ、1905年)は今も面白く読むことができる。作者は訪問した町(長崎、京都、東京、横浜)、日本人の暮らしぶり、習慣、行事、宗教、歴史、「東洋のフランス人の女」と呼ばれた日本人女性の社会的立場、お寺、茶道、芸者たちの芸、見た劇について書いている。作者は面白い結論を出している。「日本人の家庭の中にも、庭にも、どんな物にもなにか自制力、冷静、質素さという和の美しさの刻印が見られる。」、「日本人と暴力は互いに相容れないものである。」、「日本人の質素さと思いやりのある態度は彼らに特別な魅力を与える」、「躾、礼儀について言えば、日本人のような民族は世界でないだろう。」又、日本人の家に遊びに行ったら、帰る時お客さんに食事を持って行かせる習慣については、メリク・ハイカジャン氏はユーモアで「日本人の家に遊びに行くのは利益なことだよ。」と書いている。そして、彼女は日本人がヨーロッパの影響で変わっていくことについて、残念ながらこの変化はあまり良くないという意見を述べた。メリク・ハイカジャンの本には幾つかの面白い出来事が書かれている。例えば、 ある日本人の使用人が主人と主人の友人を東京駅で出迎えたのだが、その使用人はヨーロッパ人の主人を間違え、その人を家まで案内した。彼にとって外国人は皆同じ顔を持っているようだ。ヨーロッパ人にとっても同じことで日本人の顔は皆同じにみえる。
19世紀末、日本文学は初めて他言語からアルメニア語に翻訳された。ミサク・テル・ダニエリャン氏がアルメニア語に翻訳した二つの短編「母国の旗」と「あなひときお姫」が1891年トリビシの「タラズ」、「ノル・ダル」というアルメニア語の新聞に掲載された。
アルメニア文学のクラッシクな詩人であるアヴェチク・イサハキャンは1907年に12世紀の詩人の彰浩俊成の短歌をアルメニア語に翻訳して、「世の悲しみ」というタイトルで出版した。

世の中よ

道こそなけれ

思ひ入る

山の奥にも

鹿ぞなくなる

そして、作曲家ハロ・ステパニャンはこの詩に曲を書いてロマンスにした。
1911年にアルメニアの大詩人オヴァネス・トゥマニャンによって翻訳された「小さい漁師」(浦島太郎)と「舌切り雀」の日本民話は世界民話集の本に出ている。
時代が進み、1930年代、パリの「ハラチ」というアルメニア語新聞に(1934年8月19日と1937年8月15日)フランス語からアルメニア語に日本の俳諧が翻訳され載った。1937年にアルメニア大詩人のイェギシェ・チャレンツは和歌をまね「日本の短歌」という四つの詩を作り、アルメニア文学に和歌のスタイルを伝えた。ところで、チャレンツの旧居博物館には詩人が1925年にヴェニスで買った日本の版画が展示されている。
日本人の女流作家の赤松俊子が1954年にソビエト・アルメニアを訪問した。アルメニアについて彼女は次のように述べた。「アルメニア人は美人で、男性は黒い眉毛、青銅色の顔と少し高い鼻を持っている。女性も太い眉毛、細くて青銅色の顔と唇の上に薄い毛を持つ。アルメニアは太陽の国というだけではなく、歌と踊りの国でもある。アルメニア人の声から竹梃子の音を思い出す。」
日本人の作家木村浩は1960年代にアルメニアを含むソ連の幾つかの共和国を訪問した。1963年に出版した「ソビエトざっくばらん」旅行記に彼はアルメニアに一章を描いて、写真も載せた(p. 208-231)。木村浩氏はこの本には終戦後に友達となったハルビン出身のアルメニア人から初めてアルメニアの事を聞いたという懐かしい思い出でを描いた。また、アルメニア訪問した時、著名な作家のナイリ・ザリャンの家でのご馳走、80歳の有名な画家のマルチロス・サリャンのアトリエの見学、作家アラミャンとの話、若い詩人カレンツ、他の相手との正直な会話を想いだす。エチミアジンズワルドノツエレブニの見学後、感動した木村浩氏は次を述べた。
「ソビエト形成している十五の共和国の中でも恐らくアルメニアは一番古い歴史を持つ国であろう。しかも度重なる迫害にもめげず、現代アルメニア人も、ソビエトの少数民族の中にあっては、ユダヤ人と共に、最も知的な分野に活動していることは周知の通りである。副首相ミコヤンは別格としても、作曲家として世界的なハチャトリャンをはじめソビエト科学アカデミーにもアルメニア名前の学者が非常に多い。私は今度のソビエトの旅で正直いってアルメニアが一番おもしろかった。それは前述の通り、案内してくれたカレンツ君などがとても開発的で何でも話してくれたことと、この外見はちっぽけで貧しそうな高原の国が意外にも古い高度の文化を有していたことがその主な原因であろう。」他には、1970年、詩人の大日方清逸氏がアルメニアを訪問した際、アルメニア人詩人とその家族であるヘンリクとガヤネ・バフチニャン氏宅に滞在し、アルメニアの印象について、次の詩を作った。

あざみ

あざみが咲いた

あざみが咲いた

広い荒野の片すみに

たった一輪あざみが咲いた

我が若き日の想いもが

ほのかに香る野のあざみ

(アルメニア語に比企明子の翻訳)

私たちが調べた結果、アルメニアについて日本語での初出版は1942年、東京で出版されたフリチョーフ・ナンセンの「コーカサスを抜けて」の翻訳だ。アルメニアの文学について言えば、それは大体ロシア語から翻訳されたものである。ロシア語を介さず直接翻訳されたものは、アルメニア人詩人のナイリ・ザリャンが1961年に北海道札幌を訪れた時、「北海道新聞」に載せた「札幌の白い山に雪が笑う」というタイトルでの詩とその日本語翻訳である。(ところで、同じ札幌で1984年にアルメニアの産業・文化の展示会が開会された。)他の資料によれば、ホワネス・トゥマニャンの「蜂蜜の一滴」という子供用の作品も日本語に翻訳され、それを元にやがてアニメが作られた(参照「クリス」雑誌、v.828,15.05.1981p.23)。又、上述の木村博氏はホワネス・トゥマニャンの「アフタマル」詩伝説をアルメニア語から翻訳し、馬上義太郎はワフタング・アナニヤンの「野獣の戦い」という短編小説集をロシア語から翻訳した(1957、東京)。1984年、モスクワの「ラドゥガ」出版社は「愛、いのちある限り」(現代ソ連作家短編集)という日本語の作品集をワディム・パノフ監修で出版した。その中にはロシア語から翻訳されたアルメニア人の女流作家エーリダ・グリン(アブラハミャン)の「私の庭」という短編小説もあった。
同じように日本文学はロシア語を通してアルメニア語に翻訳された。年代から見ると、最初にアルメニア語に翻訳されたのは福永恭介の「将来の日・米戦争について」(イェレヴァン・モスクワ1934年)と徳永直の「太陽のない街」(1937)だった。次に日本の民話が出版された。1938年にホヴァネス・トゥマニャンによって翻訳された上述の二つの民話が別本として、又二つの昔話はS.ゾリャンの翻訳で出版された。1959年にセルゲイ・ウマリャンによって翻訳された民話集が出版された。1960年代に一連の作品が出版された。それらは高倉輝の「箱根の湯」(翻訳H.トゥルシャン、1960)、林芙美子の「6つの小説」(翻訳ラファエル・アラミャン、1963)、芥川龍之介の「藪の中」小説集(翻訳ノライル・アダミャン、1964)、遠藤周作の「海と毒薬」(翻訳V.ダニエリャン、1967)、松本清張の「陸行水行」(翻訳ショギク・サフャン、1968)、安部公房の「第四間氷期」(翻訳H.マルガリャン、1969)であった。
次の十年ではアルメニア語翻訳で日本の作家遠藤周作の「夫婦の一日」(翻訳エレナ・ダフチャン、1972、再版1997)、松本清張の「点と線」(翻訳M.サファリャン、1973)、中薗英助の「炎の中の鉛(翻訳M.サファリャン、1976)、川端康成の「千羽の鶴」と「雪国」」(翻訳M.ザレヤン、1978)、「山の音」(1981)、安部公房の「城塞」(20世紀の海外劇文学集、ⅴ.1、1983)、安部公房の「砂の女」、「他人の顔」、「燃えつきた地図」(1985)、そして「天遇の扇子」民話集(1990)、「和歌、俳句」(翻訳アルヂン・モリキャン、1993)が出版された。1982年に«学生の文庫»シリーズで出版された「東洋の古い歌」の詩集にはヘンリク・エドヤンの7-12世紀の日本人の25詩人の作品が入れられた。2003年に«ノル・ダル»雑誌(ⅴ.2-3)にはチグラン・イスラエリャン翻訳で「現代短歌」が掲載された。ところで、米国に住んでいたアルメニア人の画家のマルチロス・アダミャン氏は安部公房の「砂の女」の印象を一連の絵画に描いた。1989年にロシア人の作者のV.プロンイコフとI.ラダノフの「日本人(民族的・心理学的エッセイ)」という日本人の習慣・暮らしぶりを紹介した本がアルメニア語に翻訳され、イェレヴァンで出版された。
アルメニア・日本の文学交流ではナイリ・ザリャン(1900-1969)という有名な詩人が大きな貢献を果たした。彼は1961年に日本を訪れた後、「そこに桜が咲いている。日本の印象」という長編旅行記を書き、日本事情、歴史、文学、文化について多くの面白い情報を述べた。[1]そしてナイリ・ザリャンはロシア語から翻訳し「発句と短歌。日本の古典文学」(1965)と「日本の花輪」(1966)という詩集を出版して、アルメニア人の広い読者に日本の古代文学を紹介した。ナイリ・ザリャンのその翻訳で奮起した幾人かのアルメニア詩人は俳句と短歌を真似てアルメニア語の詩を書いた。
イェルヴァンド・パルスミャンの「太陽の子供(根に帰り道)」という小説は(ベイルト、1994年)アルメニアと日本の文学交流の特別な例である。小説の主人公ニニキ・トロ(トロヤン)はアルメニア人を父親に、アイヌの女性を母親にもつ。彼は偶然アルメニア人の患者の看護士となって、患者と彼の息子のスレン君と長い話をする。そこで初めて自分がアルメニア人であることを知り感動するという話なのだが、このストーリは実際にあったそうだ。
アルメニアで最初に日本語から直接翻訳したのはヘギネ・ハイラペチャン氏によるものである。[2]
日本人の比企明子は1998-2002年にイェレヴァン国立大学文学学部でアルメニア語、アルメニア文学を学んだ。彼女の卒業論文のタイトルは「コスタン・ザリャン、«山に浮かぶ船»における歴史主義」だった。[3]
比企明子は日本語からアルメニア語にと逆の幾つかの翻訳をした。彼女はアルメニア人の読者に室生犀星高村光太郎谷川俊太郎与謝野晶子俵万智の詩を紹介した。(参照«ガルン»、2003、第6巻)。
比企明子は2001年にイェレヴァンで開かれた«世界文化交換の鍵である翻訳»国際会議で発表し、アルメニアがキリスト教国家となった1700周年祝いの準備委員会の特別賞を受けた。
2000年、イェレヴァン人文大学教師藤田昌子は東京でアルメニアの詩人の15ページにわたる詩集を出版した。詩集にはナハペト・クチャクアヴェチク・イサハキャンヴァハン・テリャンイェギシェ・チャレンツホヴァネス・シラズパルイル・セヴァクハモ・サヒャンの15篇が入れられた。詩は比企明子と藤田昌子の学生であったリギア・ハコビャン、カリネ・ハルチュニャン、アルミネ・ペトロシャン、イリナ・ミナシャン、ナリネ・カザリャン、ナイラ・グリゴリャン、エリナ・ミキリトチャン、ガヤネ・サルギシャン、ワルチテル・ハルチュニャンが翻訳した。
最近、日本語が出来るアルメニア人とアルメニア語が出来る日本人が現れたので、近い将来、アルメニア文学が日本人の読者に広く紹介されることを期待している。その初歩として、最近の若い人の翻訳活動の例を述べられる。レヴォン・マルハシャンという青年は2001年にモスクワで行なわれる子供の日本語弁論会で優勝して日本へ二週間の研修旅行という賞を与えられた。日本でいただいたお土産の中に金子みすずの詩の本もあった。レウォン君は幾つかの詩を翻訳して「文学新聞」(2003年2月14日)に載せた。また、イェレヴァン人文大学の学生は日本の昔話を20話を翻訳して、「日本の民話」という本を出発に準備した。

科学的・文化的繋がり

日本人のアルメニア学者

両国民間の限りあるビジネス関係に精神的な交流が加わり、それが創造的関わりに大きく貢献して、お互いの民族の研究の発端になってきた。それで文学作品、翻訳、様々な研究が現れ、お互いの文化を豊かにすることが出来た。

すでに1902年9月にエチミアジン大聖堂に日本人の井上氏という青年が訪れて、幾日か泊まったそうだ。井上さんはアルメニア教会史に関心を持ったそうだ。(«アララト»、エチミアジン、1902、9-10月、p.861)。日本人の有名な学者(自然科学、マイクロ生物学、人類学、言語学)の南方熊楠氏(1867-1941)は8年間ロンドンに滞在した時、アルメニア語を学んで、初めてのアルメニア語が出来る日本人となった。又、現在の弘前から文学研究者の北側誠一氏は中世のアルメニア人学者であったキラコス・ガンゼとヴァルダン・ヴァルダペトの年代記の仏教に関する文章を研究していた。[4]
又、サンスクリットやインドヨーロッパ言語の専門家山梨学院大学の佐藤信夫教授はアルメニア学の協会を創立し、東京で「アルメニア語文法」(1986)、「新アルメニア史 人類の再生と滅亡の地」(1989)「ナゴルノ・カラバフ。ソ連邦の民族問題とアルメニア」(1989)、「古典アルメニア語文法」(1995)、「対訳アルメニア共和国憲法」(1999)と言う本を出版した。
又、東京で1984年から日本アルメニア研究所、1991年から日本アルメニア友好協会の創立者の中島偉晴氏は1980年から定期的にアルメニアに来られ、アルメニアについての記事、論文、本を出版した。中島偉晴氏の「閃光のアルメニア」(1990)には古代時代から20世紀のはじめまでのアルメニア史が述べられている。中島氏は1990年から「アララト通信」(全体37号)、1991から「アラクス」(全体47号)を創刊し、31回の講演会を開催した。1997年に「アルメニア」論文集を創刊した。友好協会の会員である福田幸夫氏は1993年にFranz Werfel「モーセ山の40日」を翻訳出版した。JAFAのホームページにはアルメニアについて様々な情報が得られる。
1991年に出た藤野幸雄著「悲劇のアルメニア」(1991)という本にはアルメニア史概説、最後の「アルメニア人の特徴」章にはアルメニア人作家のコスタン・ザリャンヴィリアム・サロヤンマイケル・アルレンの略歴が描かれている。
1998年9月に初めて東京工業大学の篠野志郎教授の研究者団体(歴史学者、建築家、物理学者、地震学者)がアルメニアを訪れた。篠野教授は研究の結果とアルメニアについての印象をJAFAの例会で発表して、「朝日グラフ」にも詳細な旅記を掲載された。その時以来篠野教授はほとんど毎年学者団体を連れてアルメニアに来るようになった。教授の研究分野はアルメニアの古い建築とその耐震性である。
日本人の歴史学者吉村貴之氏は幾年もイェレヴァンに滞在して、アルメニア語を学んで、ソビエト・アルメニアの初期史を研究していた。ここで博士論文の資料を集めた。2003年9月にイェレヴァンで開会された「アルメニア学の現在状況と発達の見通し」会議には「1920-1923年にソヴィエト・アルメニアにおけるダシュナクツチュン政党」という発言で参加した。
又、2003年に出た市川捷護氏の「ジプシーの来た道 原郷のインド・アルメニア」の本は「アルメニア・ジプシー(ボーシャ)を訪ねて」と「原ジプシーをインドに探る」という二章から成っている。第一章では日本人筆者は「ボーシャ」と呼ばれるアルメニアのジプシーについての情報を述べた。
2004年に愛知産業大学の瀬川博義教授「忘れ去られたアルメニア人虐殺」という本が出版された。この本のため、瀬川教授は人文学国際アカデミーのアルメニア支部のメンバーの位を与えられた。
同じように日本がアルメニア人の学者達の研究のテーマになった例は少なくない。ロシア・科学アカデミー準会員、歴史・民俗学・世界民俗考古学の著名な学者であるアルチュノフ・セルゲイ・ハレクサンドロヴィチ(1932年生)氏は日本に関する様々な研究をして、ロシアにも日本にも広く知られている。ハルチュノフはトビリシに生まれ、モスクワで活動をしているけれども、母国のアルメニアを忘れないで、よくイェレヴァン国立大学の歴史学科の学者に協力したり、学生に講義をしたり、論文を指導したりしするためにイェレヴァンに来られる。
又、モスクワ建築大学の助教授、画家のアニソニャン・ロザ氏は日本の芸術、特に生け花、庭園の専門家である。彼女は故郷のイェレヴァンの市民に日本の芸術について知識を伝えるため、イェレヴァンで1990年1月に「日本の庭園」「中庭」という講義をして、「生け花」のデモンストレーションをした。
又、イェレヴァンの劇と映画大学の「舞台通信」(2004、巻3)には当大学のアッラ・ダニロワ助教授の「日本の謡曲の概念的なアクセント」という論文が掲載された。
これに加えたいのは、イェレヴァンのマテナダラン古文章館には他の手書きの文章と並びマテナダランで「北斎漫画」九編 (1812年)が展示されている。
日本とアルメニアの間接的な関わりの例として、日本の女性オペラの創立に協力し、日本人の多くのオペラ歌手の教師であったのはアルメニア人のオルガ・カラスルタノワ(カラスルタニャン、1886-1977)だった。彼女は日露文化交流に著しく貢献した。[5]
1933年の情報によれば、日本の東京都、神戸市、横浜市には35人のアルメニア人が住んでいた(参考:アルメニア共和国国立官文庫、P Fond409、巻1、ファイル4732、p.4)。又、1951年の情報によれば、日本に5-6家、1962年には10家が住み、大部分は商人だった。
現在も日本には50-60人からの少数のディアスポラがあり、大部分は東京に住んでいる。中にはアルメニアから移住した人もいる。例えば、イェレヴァン出身のサルギシャン家のアラム、アルメンとレヴォン兄弟は10歳から日本語と中国語を独習した。1988年の地震の後アルメニアに人道的援助をした日本人と中国人に通訳した経験の後、アルメニア語・日本語と日本語・アルメニア語の小さい辞書も作った。サルギシャン兄弟は現在日本と中国に住んでいる。
又、1995年にフィギュアスケートの国際大会でアルメニアを代表した選手は日本人・アルメニア人のペアで鯉沼かほ・アラケリャン・チグランだった。イェレヴァン出身のチグラン・アラケリャンは、現在奥さんの母国日本に住んでいる。
日本・アルメニア友好協会の中島会長の奥さんもイェレヴァン出身、イェレヴァン国立大学の卒業生のメラニア・バグダサリャンだ。メラニアさんは現在、東京でアルメニア語の講座を開いて日本人にアルメニア語を教えている。
日本・アルメニアの関わりについて言えば、アメリカに住んでいるアルメニア人の武道の選手について話すべきである。アメリカで武道の最盛期と武道について初めてのドキュメンタリーの撮影は彼、エントニ・ミラキャンの名と関係がある。エントニ・ミラキャンはアメリカの軍隊に徴兵されて、日本に派遣された。沖縄の米国空軍基地で彼は剛柔流空手の有名なマスター八木明徳に教わり、八木明徳の外国人生徒の中で最も上手になって、外国人で初めての黒帯の受者だった。八木明徳はアルメニア人の弟子に日本以外でMeibakan連盟の長の位を授与した。運命のいたずら、アルメニア人闘士の息子はアメリカで日本の空手道のマスターになった…
日本人は遠いアルメニアの古い文化と現代文化の世界で有名な活動家に興味を持っていました。その例は音楽、文学、映画の分野に述べらている。1996年に優れた映画監督セルゲイ・パラジャーノフの絵画とコラージュの展示会が東京で開かれ、大成功であった。また、記録映画監督アルタヴァズド・ペレシャンは1995年に山形市で行なわれたドキュメンタリーの映画祭に参加したあと、「キネ旬」と「ユリイカ」の雑誌が掲載した監督インタビューの中で、ペレシャンのドキュメンタリーを高く評価した。

 
[1]ナイリ・ザリャン、6巻の作品集、第6巻、イェレヴァン1964、p.381-614
[2]日本の昔話と短編小説、«アソトギク»翻訳物の雑誌、1991年、
第4巻、p.176-180
[3]比企明子「コスタン・ザリャン、«山に浮かぶ船»における歴史上の人」、«ハイカジャン・ハヤギタカン・ハンデス»、巻IB、ベイルト、p.233-246
[4]北側誠一 中世アルメニアの文学は仏教について«中世アルメニアの文学、国際会議»、イェレヴァン、1986、9月、15-19、発言集、イェレヴァン1986、p.92
[5] S.S.マムロフ、不思議な国の奇異な民族、モスクワ、1997、p.316(ロシア語)

カリーヌカラミャン先生によってアルメニア語から日本語に翻訳しました